46歳という年齢で年商2千億円、社員数3500人という大企業インターネットイニシアティブを創業した鈴木氏ですが、一体どのような経歴を辿ってきたのでしょうか。

調べるとそこには、当時発展途上だったインターネットの世界がありました。早速詳しくみていきましょう。

鈴木 幸一の生い立ちと経歴

鈴木氏は、終戦後まもない1946年9月に横浜市で生まれました。

当時日本は敗戦国として、目まぐるしい変化があった時代です。

幼少期

鈴木氏は、映画好きな母に連れられ幼い頃から様々な映画を見ていたそうです。

好奇心旺盛だったそうで、ゴルフ場に忍び込んで遊んだり、港を歩いて散歩したりと自由奔放な小学生でした。

またラジオも大好きで、家に帰ったあとはかじりつくように聞いていたそうです。

学生時代

中学校に入ると鈴木氏はたくさんの本を読むようになりました。

ロシア文学から岩波書店の「現代思想」など様々なジャンルを読んでおり、のちに『雑学家』と言われる土壌はここで出来たのかもしれません。

高校に入るとその幼少期の頃の癖は酷くなり、学校をサボっては博物館や美術館、映画に歌舞伎、図書館など学校の勉強ではなく様々な所へ足を運び知識を付けていきました。

学校をサボってこんなことをするなんて、かなり変わってますよね。

大学時代

高校卒業後、鈴木氏は3年間就職も進学もせずにフラフラと過ごすこととなります。

いわゆるニートの状態だったのです。

しかし、中学時代の友人に再会したのをきっかけにこのままではダメだと思い大学受験をします。

選んだ大学は、早稲田大学でした。理由は、本屋で立ち読みした本の内容が面白くその本を書いた人の講義を受けたいと感じたからだそうです。

そう感じて勉強した鈴木氏はあっさりと合格します。

大学では、アルバイトを行い自立していました。

大学卒業後

卒業後も鈴木氏の悪い癖なのか、なんなのか、半年間は就職せずにアルバイトをしながら過ごすという日々を送っていました。

半年が経った頃、危機感を覚えた鈴木氏は新聞の求人広告を見つけ応募しました。

『社団法人日本能率協会』と呼ばれる所でした。

友人から、社団法人は大体暇で定時に帰れると聞いた鈴木氏はそれだったら働くかと応募します。

しかし入ってみると暇なことはありませんでした。

自分が知らない分野について必死に勉強し、試行錯誤を重ね仕事に取り組む日々が続いたそうです。

広い交友関係

鈴木氏は、非常に幅広くの人と交流を行っていました。

文化人や官僚など普通では付き合わない方とも交流していたそうです。

そのため、交際費の支出が多く飲み屋のツケばかりが増えていったと語っています。

この幅広い交友関係の中で出会ったのが、岸田孝一氏でした。

岸田氏とは『ソフトウエアの教祖』と呼ばれる程の人で、当時のコンピューター業界の先端にいるような人でした。

この人との出会いにより、鈴木氏はインターネットの可能性をいち早く見抜くことが出来たのです。

雑誌の失敗と放浪の10年

このような形で様々な人と関わる中、日本能率協会においても大きな仕事が回ってきました。

それは、当時協会の看板でもあった『マネジメント』という経済誌の編集長というポストです。

当時30歳前半だった鈴木氏にとっては異例の大抜擢でした。

誌面のイメージを大きく変え、大胆な変革を行なったが結果は失敗に終わりました。

その後、社内に居りづらくなり退社。

その後10年は、何でも屋として様々なプロジェクトに関わり放浪します。

その時には、イギリス人の人間関係の距離感が心地よくロンドンに住むことまで考えたそうです。

会社設立の転機

そんな感じでいろいろなプロジェクトをこなしていた鈴木氏ですが、1992年に大きな転機が訪れました。

アスキーのソフトウエア開発部長を務めていた深瀬弘恭氏と、慶応大の助教授村井純氏が鈴木氏の元を訪れ、一緒に商用インターネットの会社を作ろうと持ちかけたのです。

なんとインターネットイニシアティブの創業は、二人から持ちかけられ創業したというのがきっかけなのです。

しかし創業間も無く大きな危機を迎えることとなります。

インターネット黎明期

会社設立の際に、鈴木氏は話を持ちかけた二人にこう聞きました。

『金はあるのか?』

すると

『20億円あります』

と答えたため会社をしようとしていたのです。

しかし蓋を開けてみれば20億なんてお金はありません。

ある企業が酒の席で話した内容を本気にし、20億円出資してくれると思っていたのです。

国から許可を貰うことが出来なければ通信事業を行うことは無理でした。

そのためには、どうしても資金が要ります。

創業当初からサービスを開始する事はできず、一年以上金策に走ることとなったのです。

1994年サービス開始

資金がなければ許可が出せないの一点張りだった国でしたが、交渉の結果最低3億円の財務基盤があることを示せばいい。現金でなくても、銀行の融資保証の形でもよい』という一つの答えにたどり着きます。

その結果を持って再度銀行や様々な企業を回り、資金調達することが出来ました。

そして、1994年3月にいよいよサービスが開始されます。

利用者の第1号は日立製作所、次がNTT、3番目がNECでした。

開始直後からお客さんは殺到し、電話が止む事はなかったそうです。

事業拡大とネット証券の立ち上げ

インターネットの接続サービスを提供する会社として、大きく成長したインターネットイニシアティブでしたが鈴木氏はあることを思っていました。

それは、インターネットを利用した事業モデルをもっと構築するべきだという想いでした。

当時のインターネットの活用法は、ネットは便利な道具で現状のやり方を効率よくするものの一つに過ぎなかったのです。

そこで、鈴木氏はある仕掛けを行います。

多方面への人脈を生かし、ネット証券設立を提案するのです。

この時に声をかけた一つで誕生したのが、マネックス証券でした。

アメリカ・ナスダックでの上場

資金調達のために鈴木氏は株式公開を考えます。

しかも、日本ではなくアメリカでの上場でした。

上場後は、時価総額1500億円という金額をつけ巨大IT企業の一員となったのです。

通信会社への道と子会社の上場

巨大IT企業の一員となったインターネットイニシアティブでしたが鈴木氏はあることを考えていました。

それは自前での通信網を持っていないということです。

インターネットイニシアティブは、インターネットの接続サービスを提供する会社に過ぎずネット回線はNTTやKDDなどのキャリアから借りるというビジネスでした。

しかし、1990年代後半からはキャリア自身がインターネットの接続サービスを提供するようになり競合するようになりました。

そこで、鈴木氏はキャリアの買収計画を立てます。結果的に交渉は破談となるのですがあることを閃きます。

長期で回線を使用する契約を結ぶことで、キャリアになるという道でした。

1998年にこの計画に賛同したトヨタ・ソニーとともに打倒NTTを掲げ新会社を設立します。

それが、クロスウェイブコミュニケーションズ(CWC)です。

株主には、インターネットイニシアティブ40%、トヨタ・ソニーが30%という割合でした。

まだ売上はなかったCWCでしたが、資金調達のため事業計画だけでアメリカ・ナスダックへ上場することとなります。

いかに当時のドットコムバブルが凄かったのかが分かりますね。

CWCの破綻

好調に見えたインターネット事業でしたが、先行投資が重く資金繰りに喘いでいました。

そして、2003年インターネット通信キャリアを目指したCWCの会社更生法の適用を申請したのです。

CWCの破綻でした。

のちに鈴木氏は、あと一年でも持ち堪えることが出来れば黒字化していたと悔しそうに語っています。

現在ここまでキャリアが浸透し、巨額の利益を得ていることを考えるとあのタイミングで資金ショートしてしまったのは非常にもったいなかったように思います。

その子会社CWCの破綻により、インターネットイニシアティブ自身も債務超過となってしまいました。

さらには、金融機関の引き締めなども加わり大きな危機が訪れます。

NTTによる支援

企業破綻寸前までいっていたインターネットイニシアティブでしたが、通信の未来を考え鈴木氏はNTTへの支援を要請します。

打倒NTTと言っていた張本人が、NTTに支援を求めるという形になってしまいました。

その結果NTTが支援すると決定し、インターネットイニシアティブの株を31%持つという形で落ち着きました。

子会社のCWCに関してもNTT関連会社が取得し子会社となりました。

マザーズ上場

アメリカナスダックへ上場していたインターネットイニシアティブでしたが、その後経営再建が完了し東証マザーズにも上場することとなりました。

その後は順調に事業を拡大し、現在でも上場している大企業となりました。

鈴木 幸一の資産

それでは鈴木幸一氏の資産についてみていきたいと思います。

公開されている情報ですと、おそらくですが保有株であるインターネットイニシアティブが資産の大半を占めると思われます。

鈴木氏の保有率は、4.07%で現在の時価総額から計算するとおよそ65億円にも及びます。

その他に資産があると考えたとしても、80億円程ではないかと思われます。

一度破綻寸前までいってしまったため持ち分が低く思っているよりも少ないなと感じました。

もしCWCが破綻せずに継続出来れいれば、今のキャリアの構図も違った形だったかもしれませんね。

鈴木幸一の名言

技術って開発に時間もお金もかかるから、夢を実現するまでの苦しい状況の中で、どれだけ集中力を維持できるか、持続力をもてるかなんです。そのときに「さみしいね」「かなしいね」という日本のフォークソングの世界ではやっていけない。本質的なレボリューション、あるいは感性そのものを変えちゃうみたいな本物の思いがなければやっていけないんです。

日本のインターネットとアメリカのインターネットは、日本のフォークソングとボブ・デュランくらいの違いがある。アメリカはベトナム戦争の重荷の中で国としての存在基盤を作ろうという筋金入りのインターネットを作った。日本はそこまで大きな思いを持っていない。

 

まとめ

今回は、インターネットイニシアティブの歴史と共に鈴木氏の経歴や資産などについてご紹介しました。

激動のインターネット時代を牽引した鈴木氏に学ぶ事は多かったのではないでしょうか。

詳しい内容に関しては、関連する本を読んでみてくださいね!

関連する書籍は、今後追加予定です。