足利義輝の年表

1536年  第12代将軍足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる

1540年頃 父 義晴が官領・細川晴元と対立し、近江に逃れる

1547年  わずか11歳にして第13代将軍となる

1548年  父 義晴が対立していた官領・細川晴元と和睦し京に戻る

1549年  細川晴元が三好長慶らと対立、のちに敗れたため、晴元側の義輝も近江に逃れる

1552年  三好長慶と和睦し、京に戻る

1553年  細川晴元と協力して三好長慶と戦うが敗れ、近江に逃れる

1558年  三好長慶と和睦し、京に戻る

1559年  上洛してきた斎藤義龍と謁見し、幕府の相伴衆に任じる

1559年  上洛してきた織田信長と謁見する

1565年  永禄の変で討死する 享年30歳

足利義輝と明智光秀

Yahoo!ニュースより引用

足利義輝は権力が落ちていた幕府を立て直そうと邁進していました。

その目標を達成するために、諸大名との交流上洛してきた大名との謁見対立する勢力との和睦を斡旋するなどの活動を精力的に行っていました。

その時期に明智光秀が義輝に足軽として仕えていたのではないかという説があります。

「永禄六年譜役人付」には光秀が義輝に仕えていたと記載されているのだが、実際には義輝ではなく、義輝の弟・義昭に仕えていたと考えられています。

足利義輝の最期(永禄の変)

Gooブログより引用

足利義輝が精力的に行なっていた幕府再興を悪く思う人物もいました。

それは松永久秀三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)です。

松永久秀や三好三人衆は、義輝の従兄弟に当たる義栄を新将軍にしようと画策していたため、権力が強くなっていく義輝が邪魔な存在でした

松永久秀・三好三人衆は朝廷に義栄を将軍にするように言いますが、失敗します。

そしてついに三好三人衆・三好義継(三好家当主)・松永久通(久秀の長男)は約1万の軍勢を率いて、二条御所にいた義輝を襲撃しました。

義輝は自ら薙刀を振り回し、応戦しましたが討死してしまいました。

足利義輝と刀

義輝は剣聖・塚原卜伝の直弟子の一人で、奥義「一之太刀」を伝授されたといわれています。

宣教師のルイスフロイトも著書の中で「とても武勇に優れて、勇気ある人だった」と勇猛果敢な人物だったと讃えられています。

義輝が使ったとされている刀は以下の通りとされています。

義輝が使ったとされる日本刀
  • 鬼丸國綱
  • 大包平
  • 九字兼定
  • 朝嵐兼光
  • 綾小路定利
  • 二つ銘則宗
  • 三日月宗近

また、義輝は永禄の変で応戦した際に足利家の名刀を畳に刺して、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦った」といったエピソードも残っており、それほどまでに剣術に長けていた人物であったとされています。

まとめ

今回は足利義輝についてご紹介させていただきました。

もっと詳しく足利義輝について知りたい方は以下の書籍をお勧めします!

関連する書籍は、今後追加予定です。