三淵藤英の年表

1540年 12代将軍 足利義晴(あしかがよしはる)に仕える
1546年 13代将軍 足利義輝(あしかがよしてる)に仕える
1558年 義輝が京へ帰還して幕府を復権しようとする
1567年 永禄の変 義輝が三好三人衆らに暗殺される
1568年 足利義昭(あしかがよしあき)が15代将軍に就任する
1573年 槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)二条城に籠城する
1574年 自害する

三淵藤英と細川藤孝

Wikipediaより引用 細川藤孝

三淵藤英三淵晴員の長男として生まれました。

藤英の弟は「戦国最強の文化人」として名高い細川藤孝氏です。

藤英と藤孝の苗字が違う理由は、藤孝が養子として細川家へ送られたためです。

三淵藤英と足利義昭

Wikipediaより引用 足利義昭

三淵藤英は父 晴員とともに13代将軍義輝に仕えるが、永禄の変によって松永久秀や三好三人衆らによって義輝を暗殺されてしまいます。

三好三人衆は傀儡将軍として14代将軍足利義栄を擁立します。

この時、藤英と藤孝は興福寺一乗寺で出家していた義輝の弟 覚慶(のちの足利義昭)に次期将軍の白羽の矢を立てます。

しかし、三好三人衆らによって、覚慶は一乗寺に幽閉されていました。

そこで藤英は幕臣・米田求政らと協力し、覚慶を一乗院から連れ出すことに成功、各地の有力大名の力を借りて上洛を目指します。

越前国の朝倉義景などを頼った後、明智光秀の仲介もあり、織田信長の協力を得ることに成功しました

1568年義昭は見事上洛して、15代将軍となります。

三淵藤英の最期

Wikipediaより引用 織田信長

三淵藤英は義昭の上洛に成功した後、信長の命令で山城国の三好残党との戦いに参戦し、その功績と政治手腕を買われ義昭の重臣となり大和守になります。

しかし、室町幕府の威信を取り戻そうとする義昭義昭を利用して勢力を拡大しようとする信長対立するようになります

ここで弟・藤孝は信長側に、兄・藤英は義昭側につくことになりました。

1573年に義昭が挙兵すると藤英もそれに同行し、義昭が槇島城に籠城すると、藤英も二条城に籠城を開始しました。

しかし、信長の大群が城の周りを包囲すると藤英は城を明け渡し足利義昭は追放され、室町幕府は事実上滅亡することになりました。

藤英は織田信長の家臣として藤孝と同僚になったのですが、翌年信長より所領没収の上、明智光秀に自害を言い渡されます。

まとめ

いかがだったでしょうか?

三淵藤英という人物についての知識は深まったでしょうか?

藤英についてもっと知識を深めたい方は以下の書籍を参考にしてください!

関連する書籍は、今後追加予定です。