足利義昭の年表

1537年 12代将軍 足利義晴の次男として生まれる 兄は13代将軍 義輝
1542年 興福寺に出家 覚慶を名乗る
1565年 永禄の変で兄 義輝が暗殺される 覚慶も興福寺に幽閉される
のちに細川藤孝らに助けられ、奈良に脱出する
1566年 義秋を名乗りはじめる 正当な血筋の将軍を目指す
1568年 義昭を名乗りはじめる 浅井長政、織田信長らの協力のもと上洛し、15代将軍となる
1569年 本圀寺の変で襲撃されるが、浅井長政らの奮戦で助かる
1573年 織田信長と対立 京から追放される
1588年 京に帰還する 将軍を辞し出家する 皇族と同等の待遇を得る
1597年 死去

足利義昭の生涯

では次に簡単に足利義昭の生涯について見ていきましょう!

兄・義輝が暗殺される

1537年に12代将軍義晴の次男として生まれた千歳丸(のちの義昭)は、後継の争いを避けるために跡取り以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習で、1542年興福寺に出家します法名を覚慶と名乗りました。

1565年永禄の変により兄である13代将軍 義輝が松永久通(松永久秀の嫡男)や三好三人衆らによって暗殺されます

このとき、覚慶も久通らによって興福寺に幽閉されます

しかし、三淵藤英、細川藤孝らによって救出され、奈良に脱出します。

翌年、細川藤孝らの助言によって、正当な血筋の将軍家を復興するために還俗し、足利義秋と名乗ります。

還俗とは
一度出家した者がもとの俗人に戻ることを言います。すなわち、僧侶をやめることです。

足利最後の将軍となる

義秋はまず、将軍になるために越前国の朝倉義景氏に上洛への協力を依頼しました。(この頃、「秋」の字は不吉を表すことから、義昭を名乗る。

その後、朝倉氏の家臣であった明智光秀の仲介により尾張国の織田信長を頼ることになります。

1568年、織田信長軍浅井長政軍の警護のおかげで無事に京都に到着し、14代将軍義栄の病死もあり、義昭は第15代将軍に就任します。

織田信長との対立

Wikipediaより引用

めでたく将軍になった義昭ですが、本圀寺の変により三好三人衆らに襲撃されます。

兄 義輝と同様の運命をたどるかと思われたが、明智光秀、浅井長政らの奮戦によって助かります

義昭はその後、幕府を強大な権力にしようと全国の大名に働きかけていきます

しかし、信長はこれをよく思いませんでした。

信長は義昭に対し、「勝手なことはするな」と命令しました。

かつて、義昭にとって信長は自分を将軍にしてもらった恩人でしたが、義昭は信長のこういった対応に我慢できず、1573年信長を討とうと挙兵しました。

この時に義昭の味方になったのが、浅井氏、朝倉氏、武田氏です。

しかし、最大勢力である武田信玄の死去などがあり、あっさり失敗に終わります。

京都からの追放

こうして信長によって義昭は京都から追放され、室町幕府は滅亡します。

その後、義昭は備後国に落ち着き、放浪生活を送ります。

1582年に本能寺の変によって信長が自害したのち、義昭は再び上洛します

1588年に義昭は征夷大将軍をやめ、再度出家します。

朝廷方は皇后に次ぐ「准三后」という称号を与えられ、その後は1597年に腫物を病み61歳で死去します。

本能寺の変の黒幕は足利義昭?明智光秀との関係!

明智光秀

戦国史で最も謎が多いとされる「本能寺の変」

信長の家臣であった明智光秀が本能寺で信長を討ち、その後光秀が秀吉に討たれます。

光秀に謀反を起こす必要はあったのでしょうか?

本能寺の変に関しては様々な説がありますが、今回は最有力候補とされている「足利義昭黒幕説」についてご紹介していきます。

本能寺の変 足利義昭黒幕説

明智光秀は諸説ありますが、美濃国出身であるとされています。

しかし、仕えていた斎藤道三の家督争いに巻き込まれ、領地を追われ、越前国の朝倉義景氏を頼りました

先述の通り、義昭も上洛の際、朝倉氏を頼ります

その後、光秀の仲介のおかげで信長に上洛の協力を得ることができます。

義昭が15代将軍に就任してからは、光秀は京都奉行の職につき、引き続き信長と義昭の仲介役になりました。

ここまでで義昭と光秀の間に高い信頼関係があったと言えます。

義昭が京都を追放した後も、連絡を取り合っていたとしてもおかしくはありません。

光秀直筆の手紙

ここまでは史実を基にした裾国すぎませんが、義昭が黒幕だという説が最有力になったのは、最近、光秀が直筆で書いたとされている「森文書・土橋重治宛光秀書状」が見つかったからなのです。

これは信長と敵対していた土橋重治に宛てた光秀が書いたとされる手紙なのです。

ではまずその手紙を見ていきましょう。

引用元:美濃加茂市民ミュージアム
本文

「なおもって、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細あたわず候、仰せの如く、いまだ申し通ぜず候ところに、上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事」

これを簡単に現代語訳すれば、以下のようになります。

現代語訳
仰容せのように今まで手紙のやりとりがないところでしたが、あなたが将軍の味方をするという手紙をあなたからもらって嬉しく感じます。将軍の京へ入ることのことを、即座に私は了解したので、その私の気持ちを踏まえて尽力することが大事です。

ここでいう将軍とは義昭のことだと言われています。

この文章を簡単にまとめると、「義昭と光秀の間では既に、信長亡き後に義昭が京都に戻る手はずになっている」ということです。

この説では光秀は隙を見せた信長を討ち取ることで天下を目指したわけではなく、義昭の室町幕府再興のためにクーデターを起こしたのではないかということです。

(※あくまでも一説ですので、事実とは限りません。)

まとめ

いかがだったでしょうか?

室町幕府最後の将軍足利義昭についての知識を深めることはできましたか?

もっと義昭について知りたい方は以下の書籍を参考にしてください!

関連する書籍は、今後追加予定です。