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細川藤孝の年表
1534年 | 三淵晴員の次男として京都東山にて生誕 |
1541年 | 細川元常(三淵晴員の兄)の養子となる |
1565年 | 永禄の変により足利義輝が暗殺。幽閉されていた覚慶(のちの足利義昭)を救出し、朝倉義景を頼る |
1568年 | 明智光秀とともに織田信長を頼り義昭を上洛させる 義昭は15代将軍の座に就く |
1569年 | 本圀寺の変で明智光秀らとともに三好三人衆に勝利 |
1571年 | 山城国 勝龍寺城主となる |
1573年 | 信長に敵対した義昭を見限り織田信長に仕える |
1582年 | 本能寺の変で信長を討った光秀から味方につくように求められるが拒否 その際に隠居し幽斎と名乗る |
1610年 | 77歳で死去 |
細川藤孝の生涯
では細川藤孝の生涯について簡単に見ていきましょう!
生誕〜幕臣時代
1534年に三淵晴員の次男として京都東山に誕生します。
兄には三淵藤英がいます。
7歳で父・三淵晴員の兄とされている細川元常の養子となります。
1546年に13代将軍・義藤(後の足利義輝)の偏諱を受け、藤孝と名乗ります。
1565年に永禄の変で、松永久通や三好三人衆らによって足利義輝が暗殺されます。
義輝の弟であった覚慶(後の足利義昭)は久通らによって興福寺に幽閉されると、藤孝は兄 三淵藤英らと協力して救出し、越前国の朝倉義景らを頼り、義昭の擁立に尽力します。
その後、明智光秀の仲介で織田信長に助力を求めます。
そして、1568年に信長の警護もあり、足利義昭の上洛は成功、義昭は第15代将軍の座に就きます。
織田信長家臣時代

やがて、義昭と信長が対立すると藤孝は信長側につきます。
兄の三淵藤英は義昭側につき、義昭が京を追放されたのち自害しています。
藤孝は長岡の領地を信長からもらい、一時期長岡姓を名乗っていました。
また、信長の薦めにより藤孝の長男 忠興と明智光秀の娘である玉子(後の細川ガラシャ)が婚姻しました。
この2人が婚姻したこともあり、藤孝は光秀と行動することが多くなりました。
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本能寺の変以後

1582年に光秀が主君である信長を討つという本能寺の変が起こります。
本能寺の変を起こした光秀は信長を討った後、他の家臣たちとの弔い合戦に備えなくてはならないと思い、親戚になった藤孝の助けを要請します。
しかし、藤孝はこれを拒否、家督を長男 忠興に譲り、自らは髪を剃り、名を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)に改め隠居します。
その結果、光秀は孤立無援となり殺害されます。
幽斎はその後、豊臣秀吉の厚遇を受けて家名を残していくことになりました。
関ヶ原の戦い

秀吉の死後、細川幽斎は豊臣家を見限り、家康に急接近していました。
関ヶ原では東軍につき、息子の忠興にほとんどの兵を帯同させ家康の会津征伐に付き従えた。
しかし丹後の田辺城に残った幽斎と三男幸隆らが西軍15,000人に取り囲まれてしまいます。
幽斎らの兵は500人ほど、田辺城での籠城を始めるが、20倍の戦力差に10日ほどで落城すると言われていました。
しかし蓋を開けてみれば、50日間もの間持ちこたえます。
最後は後陽成天皇の勅命によって包囲網が解かれます。
なぜ天皇の勅命が出たかというと、幽斎が古今伝授を受け継いでいたからです。
古今伝授とは、平安時代の勅撰和歌集・古今和歌集の解釈を平安時代から代々受け継いできたもので、この時代では幽斎しか受け継いでいなかったのです。
幽斎が討ち死にすれば、古今伝授を受け継ぐ者がいなくなり断たれてしまいます。
それを恐れた皇族たちが戦をやめさせようと停戦の勅命を出しました。
こうして幽斎は西軍15,000人を舞鶴に足止めしていた功績を称えられ、細川家は多額の報償を受け取り、存続していきました。
その後、幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送り、77歳で死去します。
細川藤孝と明智光秀
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」で主人公として今注目の明智光秀。
細川藤孝とは一体どんな関係があったのでしょうか?
光秀と藤孝は同僚?
藤孝も光秀ももともと足利義昭に仕えていましたが、義昭と信長が対立するとどちらも信長側につきました。
両者とも仕えていた過程や時期がほとんど近いため、両者は現在でいう「同僚」的な存在だったのではないでしょうか?
子供同士が結婚
信長の薦めによって、藤孝の長男であった忠興と光秀の三女であった玉子(後のガラシャ)が婚姻することになります。
家臣同士であった藤孝と光秀はこの婚姻を機に両家の結びつきはよりいっそう強くなりました。
本能寺の変で藤孝が光秀を裏切る
織田家の家臣としてよりいっそう結びつきを強くした両者ですが、ここで事件が起こります。
戦国1番の下克上とされている本能寺の変です。
光秀が主君である信長を討ったのです。
光秀は信長を討った後、親戚となった藤孝に助太刀の要請を送ります。
しかし、藤孝はこれを拒否します。
藤孝は見捨てて、秀吉側につく準備を進めていくのです。
藤孝に見捨てられた光秀は孤立無援となり、戦から落ち延びる最中に命を落としました。
藤孝の一生を見ると、常に義理や人情ではなく、どちらにつくのが自分にとって、細川家にとって優勢かということに重点を置いて冷静に判断しているように見えます。
こうした点から、藤孝は世渡り上手と言われているのでしょう。
細川藤孝の子孫
細川藤孝の子孫で最も有名な方は誰なのでしょうか?
見ていきましょう!
細川護熙
細川護熙(昭和13年1月14日生まれ)
細川藤孝の直系の子孫で、肥後細川家の18代当主に当たる。
朝日新聞社を経て、政治家となり、第79代内閣総理大臣となる。
自民党からの政権交代を実現させ、「新党ブーム」を巻き起こして55年体制を崩壊させた。
まとめ
いかがだったでしょうか?
細川藤孝氏についての知識は深まったでしょうか?
もっと細川藤孝について知りたい方は以下の書籍を参考にしてください!
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