近衛前久の年表

1536年 近衞稙家の長男として京都に生まれる
1540年 元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、晴嗣(はるつぐ)を名乗る
1555年 従一位に昇叙し、偏諱の文字(晴)を捨て、前嗣と改める
1559年 越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、血書の起請文を交わして盟約を結んだ
1561年 上杉謙信とともに関東に出陣
古河城で前久に改名
1562年 京都へ戻る
1565年 永禄の変への関与を疑わられ、朝廷から追放される 摂津国で関白を解任される
1575年 信長に許され、京都へ戻り、准三宮の待遇を受ける
1580年 信長と石山本願寺の調停に貢献する
1582年 本能寺の変で疑いをかけられ、徳川家康を頼り、遠江国浜松に逃れる
1584年 羽柴(豊臣)秀吉を猶子にする
1612年 死去

近衛前久の生涯

まず、近衛前久の生涯について見ていきましょう!

名門近衛家に生まれる

近衛牡丹(近衛家の家紋)Wikipediaより引用

近衛前久1536年近衛稙家の長男として生まれます。

近衛家は公家の五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)という名門の中でも筆頭格の家柄で、藤原北家の流れを組みます。

母は、和泉下守護・細川高基の娘、叔母は室町12代将軍足利義晴の正室と生まれながらのエリートと言えます。

こうしたことから前久は異例の早さで出世していき、1555年には20歳で従一位に叙せられました。

長尾景虎と意気投合

上杉謙信 Wikipediaより引用

1559年に長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際に、前久と対面し、酒宴なども経て意気投合します。

2人は血書の起請文を交わして盟約を結び、前久は関白の職にありながら、謙信の関東進出を助けるために出陣することもありました。

しかし、謙信の関東進出がなかなか進まなくなり、1562年には失意のうち京都に戻ります。

永禄の変の関与を疑われ、京を追われる

前久が京都に戻った際に迎え入れてくれたのは松永久秀三好三人衆でした。

その頃、京都では永禄の変が起きており、協力を求められてた前久は断る力はなく、味方につくことになります。

しかし、織田信長が足利義昭を連れて京都にやってきました

義昭は信長や細川藤孝、三淵藤英などの力を借りて15代将軍の座につくことになります。

義昭は三好三人衆らの味方についた前久が永禄の変に関与しているとして朝廷から追放します。

織田信長と意気投合

織田信長 Wikipediaより引用

1575年に信長の許しをもらい、前久は京都に戻ってくることができました。

前久は信長に要請され、大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏らの和議を図り、さらには、本願寺と信長の調停に着手するなど、大変信長に気に入られます。

信長が天下を治めた暁には一国を近衛家に献上するという約束をもらうほどです。

本能寺の変の関与を疑われる

本能寺の変 Wikipediaより引用

その後も甲州征伐なども信長に同行するほど、織田家と近衛家の仲は深まっていきました。

しかし、1582年に本能寺の変が起こります。

信長が自害したことを聞いた前久はショックのあまり髪を剃り、出家してしまいます。

しかし、前久はここで「明智光秀軍が前久邸から本能寺を襲撃した」というあらぬ疑いをかけられます。

このことを織田信孝(信長の三男)や羽柴秀吉に詰問されると、徳川家康を頼り遠江国浜松に逃れます。

本能寺の変後

家康の斡旋もあり一年後には京に戻ることが許されましたが、小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康が対立すると再び京を離れ、2人の和睦後、また京に戻ります。

その後、秀吉は前久の猶子(名目上の父子)となり、関白職を手中に収め、天下を治めます。

前久はその後隠居生活を送り、77歳で生涯を終えます。

近衛前久と織田信長

前久と信長は鷹狩りという趣味が同じで、互いの成果を自慢しあったほど仲が良かったと言われています。

前久は本能寺の変の関与を疑われていますが、信長がなくなったことがショックで出家したり、信長の七回忌で追悼歌を詠んでいます。

追悼歌六首の頭文字を取ると「なむあみだぶ」になっています。

けきても 名残つきせぬ なみた哉 猶したはるゝ なきかおもかけ
つましき むかしの人や むかふらむ むなしき空の むらさきの雲
たし世の あはれおもへは 明くれに あめかなみたか あまるころもて
ても猶 みまくほしきは みのこして みねにかくるゝ みしかよの月
つねても たまのありかは 玉ゆらも たもとの露に たれかやとさむ
くるよの ふしとあれつゝ ふく風に ふたゝひみえぬ ふるあとの夢

近衛前久と明智光秀

明智光秀が起こした本能寺の変の黒幕が近衛前久をはじめとする朝廷勢力ではないかという説があります。

信長は安土城内に、天皇の住まいである清涼殿を模した御殿を作っていたことが発掘調査で分かっています。

つまり、信長は安土に天皇を迎え入れようとしていました。

もしこの構想が実現するなら、朝廷の実権を信長が握ることとなり、公家をはじめとする朝廷勢力の地位がないがしろにされるのではないかと危機感を覚えたはずです。

そして、近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見を中心に光秀に信長殺害の指示を送ったのではないかと言われています。

しかし、前述の通り近衛前久と信長の仲の良さを考えるとこの説は納得できません。

まとめ

いかがだったでしょうか?

近衛前久についての知識は深まったでしょうか?

もっと近衛前久について知りたい方は以下の書籍を参考にしてください!

関連する書籍は、今後追加予定です。