朝倉義景の年表

1533年 越前国の大名・朝倉孝景の長男として生まれる
1548年 父 孝景の死去により 11代目朝倉家当主
1565年 永禄の変で足利義輝が暗殺され、その弟 義昭を越前国で保護
上洛を促されたが、義景は動こうとせず、義昭は織田信長を頼る
1570年 信長・家康の連合軍に攻められるが、浅井長政の救援でこれを退ける(金ヶ崎の退き口)
姉川の戦いで信長・家康軍に敗北
1573年 一乗谷の戦いで敗北 自害(享年41歳)

朝倉義景の生涯

越前国の大名 朝倉家の長男として生まれる

朝倉義景は1533年に越前国の大名・朝倉家当主朝倉孝景の長男として生まれました。

義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切不明で、伝わる逸話もありませんでした。

1548年に父 孝景の死去により、義景は16歳にして家督を継ぎ、朝倉家11代当主となります。

しかし、当初は若すぎたこともあり、義景の祖父の代から朝倉家に仕えていた朝倉宗滴を中心とした家臣に支えられていました。

義景は長年の懸念事項であった加賀の一向一揆を征伐するために、宗滴を大将とした大規模の軍勢を送り込みました。

しかし、宗滴が病で倒れ、そのまま死去してしまいます。

これにより、加賀の一向一揆征伐は成し遂げられないまま、軍は越前に帰国しました。

足利義昭が朝倉義景を頼るも、去る

1565年、京都では将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺されます。(永禄の変

義輝の弟 義昭も三好三人衆らによって幽閉されていましたが、脱出に成功し近江国に逃れます。

その後、義景は義昭を越前国へ迎えます。

義昭は朝倉家の長年の懸念事項であった加賀の一向一揆を自らの仲介によって和解を成立させるなど、義景に対し恩を売っていました。

しかし、義昭からの上洛の護衛の要求は義景は聞き入れようとせずそれに愛想を尽かした義昭は義景のもとを去り、勢力を急拡大していた織田信長のもとへ行ってしまいます。

その後、義昭は信長と共に京へ入り、第15代将軍に就任します。

信長を敗北寸前まで追い込む

織田信長 Wikipediaより引用

京都では将軍の権力をより大きくしたい義昭勢力をどんどん拡大していく織田信長が意見の相違によって、対立します。

義昭は義景をはじめとする各地の大名に信長を倒してくれないかと手紙を出すようになりました。

義景は手紙をもらい、義昭に歩み寄ろうとすると、信長が義景に「信長側につくように」と上洛を要請しました

しかし、義景は信長の配下になることを嫌い、これを拒否します。

これに対し、信長は3万もの大軍を率いて、朝倉氏を攻めます。

この大軍の侵攻で義景は窮地に追い込まれますが、信長側の浅井長政が突如として裏切り、織田軍は撤退します。

戦場から離脱していく信長に対し、朝倉軍は追撃しますが、信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまいます

一乗谷の戦いと義景の最期

京都に逃れた織田軍でしたが体制を再び整え、裏切った浅井軍を攻めます

浅井長政は当然、義景に協力を要請しますが、義景はこの戦いに自らは参加せず、家臣である朝倉景健を総大将とした軍を浅井軍に大きく遅れて出陣させます。

浅井・朝倉連合軍と織田軍は姉川を挟んで、戦が始まります。(姉川の戦い)

浅井・朝倉軍ははじめは優勢でしたが、織田軍が西側から攻め入ったことにより大きく形勢が逆転し、浅井・朝倉軍は大きく兵を失うことになります。

その後、浅井・朝倉軍は三好氏、本願寺、武田氏と共に信長包囲網を築きます。

しかし、武田信玄が病死したことによって、包囲網は離散、浅井・朝倉氏は危機的状況に追い込まれます。

京都から義昭を追放した信長は浅井氏を侵攻しました。

義景も救援のために軍をあげ、家臣にも協力の要請を出しますが、朝倉景鏡をはじめとする多くの家臣に拒否されます。

義景はやむを得ず自国の兵だけを率いて出陣しますが、結果は大敗。一乗谷の戦い

その後も家臣に裏切られ、賢松寺で自害します。

朝倉義景と明智光秀

Wikipediaより引用 明智光秀

明智光秀は美濃国出身ですが、斎藤義龍に明智城を攻められ、越前国の朝倉義景を頼ったと言われています。

その後、光秀は鉄砲の名人として、義景に10年ほど仕えていました。

加賀一向一揆の戦いで光秀は50数名の鉄砲隊をまとめて戦果をあげ、義景から高い評価受けていました。

しかし、鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶのたいふつぐとも)が義景に光秀は才能があるが、やがて謀反を起こすような人物であると讒言(さんげん)したため、光秀は疎まれることになります。

讒言とは
他人をおとしいれるため、ありもしない事を目上の人に告げ、その人を悪く言うこと。

こうして光秀は越前国での居心地が悪くなってしまい、義景のもとを離れ、織田信長に仕えるようになったと言われています。

その後、信長と義景の対立によって、光秀はかつての主君に敵対してしまうことになります。

朝倉義景の家紋

朝倉義景が使用した家紋は三盛木瓜です。

木瓜はボケとも言い、バラ科の植物です。

朝倉氏は天皇家の末裔と言われており、もともと日下部性を名乗っていました

日下部性を名乗っていた時は、「一つ木瓜紋」(上記、三盛木瓜紋の3つ木瓜のうち1つの木瓜だけを用いた家紋)を家紋として使っていましたが、頼朝より功績を称えられ、三盛木瓜紋を賜ったと言われています。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

朝倉義景について知ることはできましたでしょうか?

もっと朝倉義景について知りたい方は以下の書籍を参考にしてみてはいかがでしょうか?

関連する書籍は、今後追加予定です。