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浅井長政の年表
1545年 | 北近江の大名 浅井久政の子として生まれる |
1559年 | 父 久政を隠居させ、家督を継ぐ |
1560年 | 野良田の戦で六角義賢を破る |
1567年 | 織田信長と同盟を結ぶ 信長の妹 お市を正室に迎える |
1570年 | 金ヶ崎の退き口で信長を裏切り、朝倉側につく |
姉川の戦いで信長に敗北する | |
1573年 | 小谷城の戦いで破れ、自害する |
浅井長政の生涯
ではまずは簡単に浅井長政の生涯について見ていきましょう!
生誕〜野良田の戦い
浅井長政は1545年に北近江の大名 浅井久政の嫡男として生まれます。
当時の浅井家は六角氏の支配下にあり、長政も幼少時代は人質として過ごしていました。
六角氏は浅井家との上下関係をはっきりさせるために六角氏当主・六角義賢の偏諱を受け、賢政を名乗らされたり、六角家の家臣の娘と結婚させられたりしています。
長政はこうした環境に我慢できず、父である久政を隠居させ、浅井家の当主になります。
また、長政は当時名乗っていた偏諱を受けた名前を捨てたり、妻を実家に返すなど、六角氏への離反を図ります。
そして、六角氏と浅井氏の戦いが始まります。(野良田の戦い)
兵力では六角氏が大きく上回っていたのにも関わらず、長政の大活躍もあり、浅井軍が勝利しました。
この勝利が北近江における浅井氏の立場を確立することにもなりました。
織田信長と同盟を組む

1567年ごろに織田信長から浅井氏側に有利な条件で同盟を申し入れてきました。
この同盟は浅井家にとって大変メリットのあるものでしたが、すぐには同意できない事情が浅井家にありました。
その事情とは浅井家が長政の祖父の世代から同盟を結んでいた朝倉家の存在です。
朝倉氏と織田氏は仲が悪く、付き合いの長い朝倉家を無視して織田氏と同盟を結ぶことは長政にはできませんでした。
信長はその事情を汲み取り、「朝倉家への不戦の誓い」を立てることによって同盟を結ぶことを提案します。
その条件ならと浅井氏は信長と同盟を結ぶことにしました。
この同盟に際して、長政は信長の妹 お市を正室に迎えることになりました。
信長を裏切る

しかし、信長は1570年「朝倉家への不戦の誓い」を破り、朝倉家への侵攻を始めました。
これにより、朝倉家と織田家の両家の同盟国であった浅井家は板挟みになりました。
長政はより長い付き合いがあった同盟国、朝倉義景との同盟関係を重視し、朝倉方の城に侵攻中の織田軍を背後から急襲しました。
信長は長政の裏切りによって撤退を余儀なくされました。(金ヶ崎の退き口)
長政の裏切りによって腹を立てた信長はすぐに体勢を立て直し、浅井・朝倉を討とうとします。
まず最初に戦ったのがかの有名な姉川の戦いです。
この戦いでは信長を敗戦させる一歩手前に行ったのにも関わらず、朝倉浅井軍は敗戦してしまいます。
その後、朝倉氏、浅井氏は反信長の寺院勢力や足利義昭、さらには武田信玄と手を組み、信長包囲網を築きます。
武田信玄が三方ヶ原の戦いで織田・徳川軍を完膚なきまでに追い詰め、信長包囲網はあと一歩で完成しようとしていたところで、信玄が急死してしまいます。
そして、反信長の将軍 足利義昭も槇島城の戦いで破れ、京都を追放され、包囲網は解体してしまいます。
こうなるとまた信長は朝倉・浅井軍を討とうと兵を挙げました。
小谷城を包囲された長政は義景に援軍を依頼しますが、信長軍の攻撃にひるみすぐに撤退、そのまま朝倉軍を追撃した織田軍は朝倉氏の本拠地 一乗谷城まで乗り込んで、朝倉家は滅亡します。
朝倉家が滅亡したのちも、織田軍は小谷城を囲み続けます。
信長から提案された降服を断り続け、小谷城は落城、長政は切腹し、自害します。享年29歳。
浅井長政と浅井三姉妹
小谷城が信長に攻められ落城した際に、長政は切腹し自害しましたが、妻の市と3人の娘(浅井三姉妹)は無事に城から逃げ出し、織田家に預けられることになりました。
その3人の娘(浅井三姉妹)はのちにどのような人生を送ったのでしょうか?
詳しく見ていきましょう!
茶々

茶々は太政大臣および関白となる豊臣秀吉の側室になり、嫡男 秀頼を産みました。
秀吉の死後は秀頼の母として豊臣家政を掌握するが、大坂夏の陣で徳川軍に負けると、秀頼とともに自害したと言われている。
初

初は京極高次の正室として京極家に入ります。
京極家は出雲国・隠岐国・飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家であり、初は三姉妹の中では最も格上の武家に嫁いだが、下克上などによって京極家は衰退していきました。
大坂の陣では、姉妹の嫁いだ徳川家と豊臣家の関係を改善するために、豊臣方の仲介として奔走しました。
江

江は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠の正室になります。
3代将軍家光や中宮源和子など多くの子孫を残し、彼女の血筋は今上天皇や悠仁親王にまで続いています。
浅井長政の城
では次に浅井長政が過ごした城について見ていきましょう!
小谷城

小谷城は現在の滋賀県長浜市湖北町伊部にありました。
日本五大山城の一つに数えられていました。
しかし、先述の通り、織田信長に攻められ落城、その後、北近江の拠点は長浜城に移ったため廃城となりました。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)が落城後、短期間ではあるが居城していたことでも知られています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
浅井長政についての知識は深まりましたでしょうか?
もっと知識を深めたい方は以下の書籍を参考にして見てください。
関連する書籍は、今後追加予定です。