編集部オススメの一冊は、今後追加予定です。
お市の年表
1547年 | 織田信秀の5女として生まれる 13歳年が離れた兄 信長がいる |
1568年 (諸説あり) |
浅井家と織田家の同盟のために浅井長政と婚姻する |
1573年 | 小谷城が落城し 長政が自害 3人の娘と織田家に引き取られる 清州城で娘たちと9年余り過ごす |
1582年 | 清州会議で柴田勝家と再婚する |
1583年 | 賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れたため 勝家とともに自害 享年37歳 |
お市の生涯
では簡単にお市の生涯について見ていきましょう!
浅井長政と政略結婚

お市は1547年に尾張国の戦国武将 織田信秀の5女として生まれます。
13歳離れた兄にはかの有名な戦国武将 織田信長がいます。
前半生についてはほとんど記述がなく、不明です。
婚姻時期については諸説ありますが、1568年ごろに浅井家と織田家の同盟のために浅井長政と婚姻します。
お市は政略結婚にも関わらず、長政との仲は睦まじく1年おきに娘を出産しています。
お市は政略結婚でありながら子供にも恵まれ、夫婦仲も円満で幸せな日々を過ごしていたのですが、1570年、信長が浅井家との同盟の条件である「朝倉家への不攻の誓い」を破って朝倉家への侵攻を始めると状況が一変します。
夫 長政は朝倉側につき、信長を裏切り、両家は断絶します。
お市は兄と夫が対立してしまうという立場のない状況になってしまいました。
浅井家と織田家の戦いは続き、ついに1573年に浅井家の拠点であった小谷城を攻め落とされます。
夫 長政は自害しますが、お市と3人の娘は救出され、織田家に引き取られることになりました。
お市が信長の妹ということもあり、清州城で庇護を受けながら三姉妹とともに9年間ほど平穏に暮らします。
柴田勝家と婚姻する

1582年に信長が本能寺の変で亡くなると、織田氏の後継や領地分配のために開かれた清州会議にてお市の再婚が決まります。
再婚相手は信長の重臣であった柴田勝家です。
婚姻の理由は「秀吉が勝家を丸め込むために仕向けた」「勝家がお市に惚れていた」「信長の妹であるお市を妻にすれば勝家の立場が強まる」などさまざまな説があります。
お市は勝家との再婚が決まり、落ち着いたかのように見えますが、翌年(1583年)勝家が秀吉と対立、「賤ヶ岳の戦い」で敗北し、自害します。
このとき、勝家はお市に逃げるように言いましたが、彼女は娘たちだけを逃し、自らも自害する道を選びました。
享年37歳でした。
お市の娘
お市の3人の娘は浅井三姉妹と言われ戦国時代を代表する姉妹ですが、彼女たちはのちにどのような人生を送ったのでしょうか?
詳しく見ていきましょう!
茶々

茶々は太政大臣および関白となる豊臣秀吉の側室になり、嫡男 秀頼を産みました。
秀吉の死後は秀頼の母として豊臣家政を掌握するが、大坂夏の陣で徳川軍に負けると、秀頼とともに自害したと言われている。
初

初は京極高次の正室として京極家に入ります。
京極家は出雲国・隠岐国・飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家であり、初は三姉妹の中では最も格上の武家に嫁いだが、下克上などによって京極家は衰退していきました。
大坂の陣では、姉妹の嫁いだ徳川家と豊臣家の関係を改善するために、豊臣方の仲介として奔走しました。
江

江は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠の正室になります。
3代将軍家光や中宮源和子など多くの子孫を残し、彼女の血筋は今上天皇や悠仁親王にまで続いています。
お市は絶世の美女?
お市は「戦国一の美女」と賞されています。
では果たしてどのくらいの美女だったのでしょうか?
『溪心院文』によると、37歳の時点で実年齢よりはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの美形であったと伝えられています。
安土桃山時代の平均寿命は30代であったことや当時は今ほどスキンケアが発達していなかったことをを考えると、相当若く見えるほど美形だったのではないでしょうか。
まとめ
いかがだったでしょうか?
お市についての理解は深められましたでしょうか?
もっと知識を深めたい方は以下の書籍を参考にしてください!
関連する書籍は、今後追加予定です。